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2006年01月23日

撮影

060123.jpg

昨日は一日ミナミを駆けずり回っていました。
フォトセッションです。

それはもう、街をゲリラ的に闊歩闊歩カッポカッポ。

被写体の事には敢えて触れませんが、このフォトセッションを通してまた再認識した所がたくさん有りました。
まずは、こんな汚い大阪の町でも、視点を変えれば素晴らしい街であるという事。

何故そういう事を言うかというと、やっぱり撮影の事を考えながら街を歩くとなると、そこには既成概念から縛られた己の視点を多角的、かつクリエイティブに開放する必要が有り、普段からそういう事を考えながら歩いていたとしても、視点のそれは所詮「ながら」でしかなく、いざカメラを手に、そしてスタッフを指示しながらとなるとそれはもう「ながら」的境地とはかけ離れたモノとなり、「街を切りとる」作業は一気に大阪の町を魅力的なものに変えた。と、思いたい。

よくある話、慣れって怖いもので、マンネリだとか、アンニュイだとか、結局そんなもんは己の責任の範疇であって、決して向こうから訪れてくるものではない。そこを錯覚する事で駄々をこねるのは些かアンフェアで、そして無責任な事なんだなと思う。

最近、大阪のイメージアップを図ろう!なんてことがネットを始め、シンポジウムやらで取りざたされていますけど(僕も以前参加しました)、結局のところ、住んでいる人の意識の問題なのかなと思います。
切った貼ったの街造りが外的に魅力的なものに映るとも思えないし、都市計画も純粋な意味での「美の構築」をするには様々な不確定要素の壁をはじめ、リスクヘッジの強い我々日本人には見えない敵との戦いであると思います。

誰が悪いとか、誰に頼めば良くなるとか、そういう事ではなく、結局個人の意識レベルで起こっている事がほとんどの要因だと思いますので、この場合、ハード(建造物や看板)を推し進めるのと、ソフト(住民の意識レベル)を供給するのと、どちらが必要かは推して知るべしです。

僕自身も、自分個人の超狭い視点しか持っていないにも関わらず文句を言ってたのは恥ずべき事だと思いますし、ナショナリズムや愛国心は無いに等しい人間ですが、万物に対してそういう姿勢で望む事は良くない事だと思いました。

落書きだらけのアメリカ村なんかで仕事しているからこそ、大切なんだな。

視野の広さ、ニュートラルな自我、そういうものが豊かなこの国を生きていくのには必要なんですね。

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